歌詞の善し悪し

音楽の作り手にとって、普段からライブに足しげく通ったり、月にアルバムを何枚も買ったり、「趣味は楽器演奏です!」といったような音楽大好きっ子にアピールするだけでなく、広くあまねくあらゆる人に音楽を身近な存在として親しんでもらうには、やはりインスト曲だけでなく、ボーカル曲に取り組むことは重要だ。
そしてボーカル曲では楽曲はもちろんのこと、歌詞の善し悪しというものが同じくらい、いやそれ以上大切である。
にも関わらず、最近のボーカル曲では歌詞の重要性が軽んじられているように思えてならない。
このことについて何年も前から思いを巡らせていたのだけれど、最近ふとしたことから、この漠然と考えについてひとつの帰結を得るに至った。
ひことこで言ってしまえばそれは、「メロディと歌詞がお互いのために作られていない」ということだ。
つまり作曲家は歌のメッセージと無関係に頭に思い浮かんだメロディを並べて、作詞家は自分の伝えたいメッセージをメロディにお構いなしで書き連ねる、そういう曲が巷にあふれている。
これは何もアマチュアバンドの作品だけでなく、TVで流れるようなメジャーレーベルの楽曲でもそうなのだから困ったものだ。
ボーカル曲の制作手法には大きく分けて「曲先(きょくせん)、詞先(しせん)」のふたつがあって、まずメロディを作って、それに詞を付けるのが「曲先」、逆に詞が最初にあってそれにメロディを作るのが「詞先」、読んで字のごとくである。
もちろん、一人で作曲と作詞の両方をこなすシンガーソングライターや、常にメンバー間で連携を図りながら制作するバンドなどの場合、両方の作業を並行して進めることができるし、それが歌モノ制作の理想型ではあるのだけれど、昨今の制作現場では圧倒的に「曲先」が多くて、自分もそのスタイルでボーカル曲を作ることがほとんどだ。
とはいうものの実はこの「曲先」という手法、作詞家にとっては実はとてもチャレンジングでハードルの高い手法なのだ。
一見、詞先の方が、詞の分量を一般的なポップスの尺に合わせるだとか、歌の1コーラスにおける「Aメロ、Bメロ、サビ」といった構成を気にかけながら詞を組み立てなければならないので難しそうな印象を受ける。
ところがその部分だけ作詞家が心得てしまえば、あとは作曲家がその詞の持つリズムやイントネーションを活かしてメロディを作ることができるし、すべて自分の引き出しの範囲内でしかメロディを組み立てることができない「曲先」に比べて、歌詞という外からのインスピレーションを得たり、歌詞がもともと持つリズムやイントネーションの制約を逆手に取った作曲ができる「詞先」の方が印象的なメロディを生み出せる場合が往々にしてある。
自分も実は、制作に先立って「曲先と詞先、どちらがよいか」と問われれば、迷わず後者を選ぶ(もっとも、詞を作るのがにわか仕込みの素人ではなく、ちゃんとしたセンスを持った作詞家であることが前提ではあるけれど……)。
一方曲先では、まず作曲家が好きなようにメロディを作って、作詞家はそれに合わせて言葉を当てはめていけば良いので、単に文字数だけつじつまを合わせれば作詞が出来ると思われているフシがある。
加えて、言葉そのものが音楽的なリズムやノリを持っている英語圏の詞と違い、日本語というものは必ず母音と子音とがワンセットでひとつの「音」が表現されるため、リズム感に乏しいと思われがちだ。
ところがそれはとんでもない誤解で、日本語には日本語特有の美しいリズムやイントネーションを持っていて、曲先での作詞では、与えられたメロディに対してもっとも効果的に響く言葉を慎重に選び取る高度なスキルと経験が求められる。
要するに、曲先の作詞の入門は易しいが、極めるのは大変難しいのである。
とはいえ入門が易しく、適当に音符の数とメロディをマッチさせれば、それなりに体をなした作詞が出来てしまうし、また歌詞とメロディ、両面から総合的な善し悪しを見定められる審美眼の持ち主がそれほど多くないこともあいまって、さして印象に残らない、凡庸なボーカル曲の氾濫を招いているように思える。
加えて、単に凡庸なだけならまだ救いようがあるかもしれないけれど、中には素晴らしいメロディを持った楽曲なのに、出来の悪い歌詞がそれをスポイルさせてしまっているケースが散見されて、これが大変残念でならない。
こういう曲に共通する特徴というのは、決まってメロディのリズムやイントネーションにお構いなしで詞が付けられていたり、詞の文字数に合わせるためにメロディに不自然で醜い同音連打が多かったり、また必然性もなく1コーラス目と2コーラス目、あるいは同じフレーズの繰り返し部分ごとに微妙にメロディのリズムが歌詞の都合によって変えられていたりする。
ところで、僕にとって歌モノにおけるボーカルは楽器の1パートに過ぎなくて、その歌詞も言葉によるメッセージというよりは、あくまで「音」として聴いているので、特に「今回は歌詞を聴くぞ!」という意識を向けることによって、「ああ、この歌の歌詞はそういうメッセージなのか、こういう気持ちを歌っているんだ」と初めて気づくことがよくある。
よく楽曲の感想などで「この歌の歌詞はわたしの今の境遇に近くて、とても共感できます!」といったものを見かけるけれど、僕にとって歌というものは、メロディ、リズム、コード、アレンジ、歌詞、すべてが一体となって「歌」たらしめているため、そういう風に言われても、実はあまりピンとこないのだ。
そうであるにもかかわらず、本当によくできたボーカル曲というのは、特段、歌詞に意識を向ける努力をしなくても、自然と詞の内容が頭の中に入ってくる。
これはとりもなおさず、メロディと歌詞がお互いのために作られている証左に他ならない。
そしてこのような特徴を持った日本語の歌は、比較的70〜80年代の歌謡曲に多くて、90年代以降のヒット曲からは急激に減ってきているように思える。
仕事柄、自分の手がけてきたボーカル曲もいろいろあれど、現状、今までご一緒してきた作詞家の中で、「この人の作詞は素晴らしい!」と思えるような人は実のところたった二人しかいない。
作詞というものは、多くの人が思っているよりもはるかに奥が深く、困難の伴うものだ。それだけに、優れた詞を生み出す作詞家たちには最大限のリスペクトを

Leave a Reply